今からおよそ560年前-。
宝徳2年(1450年)、「怒仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師」の教えを受け継いだ弟子の「石叟円柱(せきそうえんちゅう)大和尚」がこの地に訪れ、建穂山麗(たきょうさんろく)の「喜慶庵(きけいあん)」に泊まりました。その夜、突如現れた白狐のお告げにより、久住山(くずみやま)の麓に法場(てら)を開くことになりました。
時の守護である「福島伊賀守(ふくしまいがのかみ)」は、深く石叟に帰衣して土地を寄進。この地の石上氏の協力と、石叟の法弟「大巌宗梅(たいがんそうばい)大和尚」も実務をつかさどり享徳元年(1452年)一棟を建立し、伊賀守の法名により「洞慶院(とうけいいん)」と称しました。
石叟は師である恕仲を開山と仰ぎ、自らは二世に居り、大巌を三世としました。大巌は、大いに宗風を挙揚し、賢窓・行之・回夫の三高足を打出しました。この三哲は輪住制(りんじゅうせい)を以て当山に住し、以後末派寺院が一年交替で輪番住職を務めました。
明治の新政で輪番制(りんばんせい)から独住制(どくじゅうせい)に革まり、風外秀吟・普明知常・仏鑑明国・仏山瑞明・仏庵慧明・瑞岳廉芳・鐵山玄道大和尚を経て、現在の住職は大全義裕大和尚に法灯が受け継がれております。